断絶覚え書き

書いたり書かなかったり

発見と懺悔

 年齢を重ねるごとに自分の好き嫌いや得手不得手が細かく認識できるようになった。
 今まで「自分はこんな人間だ」と思っていたのが細分化したり原因を究明しようとグルグル考えているとあるとき突然邂逅するあの感覚は嫌いじゃない。
例えばそう、僕は幼い頃からカツ丼やら親子丼、天丼...つまり丼ものが好きだと思い込んでいた。定食屋に行っても迷わず丼を探し、丼を吟味し、丼を食べる。長い間丼とは相思相愛の関係だと思い込んでいた。
 ハタチを過ぎてしばらく経った頃、カツとじ丼をかきこんでいると、最終局面、ご飯と出汁がないまぜになったソレを見て「あれ、水気を含んだご飯、あんまり好きじゃないな?」と気づいてしまった。思い返せば僕はおかゆやらお茶漬けやら、果てはコーンフレークの甘い牛乳のフェーズまで。僕はそれらがあんまり好きじゃない。
 これは僕が変わったのではなく、自分の本心にきづいてしまったという感覚が一番近い。今までは「丼とは美味しいもの」という先入観が僕の判断を支配していて、丼を選ぶときに自分の意思は介在していなかった。もちろん、定食屋に行って素直に定食を選んだ時の満足度の高さに気づき始めていたというのもある。自分で料理を始めて気づいたけれど、温かいものが温かく出てくる。それも何品も同時に。この難易度と満足度に気づいた頃、僕は丼を卒業したのかもしれない。そもそも、大抵のご飯は温かいものが温かく、冷たいものがしっかり冷たければ概ね満足すると考えても言い過ぎではないと思う。
 なんにせよ、生きてると新たな発見は尽きない。
他にもある。これはつい先日気づいたことだけれど、僕は幼い頃から「寝たら忘れる。」というおめでたい性格だと思い込んでいたし、それが気持ちの良い生き方だと思っていた。これも大きな解釈違いがあった。まず大前提として僕は嫌なことがあったらどんな些細なことでも死ぬまで忘れない。いわゆるしつこい男に分類されると思う。ただ、不満や納得のいかないことが起きたときにスッキリするまで、ケリのつくまで暴れ散らかす。話が終われば僕にとっては過去になり「忘れる」のであって、決して「寝たら」忘れるわけじゃない。
妻に以前「相手は喧嘩と思ってるけどアンタはそう思ってないことめちゃくちゃありそうよね。」と言われたことがある。僕が気づいてないだけで、僕がスッキリしただけ。というシーンはたくさんありそうだし、暴れ散らかした後こっちは忘れてるけど周りには遺恨が残ることもたくさんある気がする。
新たな気づきが必ずしもポジティブな話とは限らない。僕の場合は、僕の中の怪物を助長し、克明に浮き上がらせているだけなのかもしれない。たまに出くわす「ヤバいおじさん」の線路をコツコツと歩いている気がしてならない。
そんなときはこんな風に少しずつ吐き出して、妻、あるいは底抜けに優しい人に殴ってもらうしかない。また何かを見つけたらゲロっと吐いていこうと思う。