断絶覚え書き

書いたり書かなかったり

生き物

 僕の家はハリネズミと猫を飼っている。どちらも終わりのない可愛さを備えているのだけれど、2匹の可愛さは少し違う。

 

 ハリネズミの可愛さは造形としての可愛さに分類される気がする。まず、彼女は懐かない。慣れることはあっても懐くことはない。人間を前にしてもパブロフの犬よろしく、池の鯉が手を叩けば群がるのと同じく、餌を求める。そもそも、人間を人間と認識できていない節がある。雨や風、そして人間。大自然の一部として捉えられているように思う。彼女は快か不快かの世界線で生きていて、そのベースは空腹であったり、非常に本能的な行動原理に基づくと飼っていてつくづく感じる。僕らはその健気さに心を奪われ、懸命に皿に顔を突っ込むその姿に可愛さを感じている。

 

 一方猫はどうだろう。彼らは恐ろしいほどにしゃべる。明らかに感情が存在しているように思うし、求めていることがハリネズミのそれより多様だと感じる。餌をくれから始まり、撫でろ、抱っこしろ、しまいにはウンコ報告。僕らがかまっていないと始終鳴いている。もどかしいのは言葉が通じないことだ。彼は必死に鳴くが正確に伝わることは非常に稀で、僕らは状況から判断するしかない。トライ&エラーの果てに彼の言葉をぼんやりと理解する。しかし、朧げながらもコミュニケーションがとれるとそれはもう人間に対して感じる可愛さに近くなる。

 

 話は変わるけど先日義姉が出産した。里帰り出産ということもあり、赤ちゃんに何度か遭遇したけれど、意思疎通なんてもってのほかだった。僕の中ではハリネズミと似た感覚だ。快か不快かで生きている。この後感情が形作られて、しゃべるようになるらしいから人間ってすごい。

 

 

 先日、行きつけの整骨院で「首座ってきましたね」と言われた。薄々そうじゃないかとは思っていたけれど、つい最近まで快不快で生きていた赤ちゃんだと発覚した。このペースだと向こう300年くらいかけて徐々に感情を形成するのかもしれない。