断絶覚え書き

書いたり書かなかったり

麻疹

その昔、ニコニコ生放送というものが存在した。今どうなってるかはわからない。

 

高校生の僕は一時期ニコ生に興じていた。熱心に見ていたのではない。やっていたのだ。殺伐としたMMORPGばかりしていた僕は癒しを求めてその世界に進んだ。リリースしたばかりのそれは「枠」という概念が存在し、サービス内で同時に放送できる数に限りがあった。今も使われているかは知らないけれど、「枠乙」はここが出発点だったと思う。

約1年間をまるまる黒く塗りつぶすような放送ばかりでアーカイブがどこかに残っていたら苦しみの果てに死んでしまう。主にやっていた内容といえば、当時流行っていた「青鬼」の実況や犬もくわない雑談放送といった具合で紛うごとなき黒歴史だ。
当初こそ、ラジオ番組を持ったようで楽しく放送をしていた僕だが、視聴者数や来客数が可視化されるという一般的な機能もあいまって次第に「いかに人を集めるか」という方向にシフトしていった。やれ時間を変えてみたり、内容を変えてみたり、色々な方法を試した。
当時のインターネットは今よりもっと狭く当たり屋みたいな人たちも少なかった。狭いコミュニティの中、アンパンマンみたいな世界観でやってるチャンネルは高校生の僕にはとても居心地が良かった。ある日唐突に「しょうもな」と思うまでそれは続いた。

 

思えば、あの頃が僕の承認欲求のピークだと思う。他者の評価を求め、従順に調整してさらなる評価を求める。ちょっとした妖怪みたいな存在だった。果たしてあれは消したい過去だったのか。そう考えるとそれがそうでもない。シャワーを浴びながら叫びたくなる過去ではあるけれど、消したいとは思わない。あの経験は、高校生の限定的な時期に通ることができて本当に良かったと今では思う。今なら思える。
そういう類の話はいくつもある。浅野いにおだってそうだ。BUMP OF CHICKENも、太宰治も。10代後半に通っておくべき道が存在する。それらの作品が悪いだとか陳腐だとかそういう話じゃなく、麻疹みたいなもんで、大人になってからだと事態が重症化する可能性がある。
もう少し踏み込んでかんがえると、それは作品に依存するものでないと思う。例えば僕は先日アニメ版エヴァを見直した。だからといって極端にキャラクターと自分を重ねることはなかったし、まして行動を真似るようなこともない。先にあげた作品群もそう。当時はフィクションや歌詞に自分を重ね、あるいは重ねようと自分を寄せていったりした。たくさんの作品に出会うことで、「よくある話」「みんな考えることはそんなに変わらない」と気づき始め次第に無理な同一化をしなくなる。エヴァなんかは顕著だと思う。アニメ版ラスト2話なんかは特に「俺の話をしてるのか?」と思う中学生を量産したと思う。

 

黒歴史っていえば、とどのつまり自分がどこか特別な人間だと根拠もなく信じることだと思う。もちろん実際に特別な能力を持ってて突き抜けていく人もいる。ただ、悲しいけれど多くの人は失敗や恥を持ってしか事実を理解できない。10代のうちに夢を見ているところを誰かに、あるいは何かに殴られ目を覚ます経験をしておくべきだと僕は思う。大人になると面白いくらい横っ面を張られる場面は減る。もしくは生きてきた年数が邪魔をする。夢を見たままそのまま死ねればそれにこしたことはないけれど、そうするには鋼の心臓を持ち、とにかく強く生きるしかない。それこそ特別な人間にしか通れない修羅の道だと思う。

 

こう言ってる間も僕はまたどこかで世界から張り手を食らうことでバランスを取りながら現実と夢を行ったり来たりしながら生きてくんだと思う。それはそんなに悪いことでもないのかなと今は思えるようになってきた。これからもユラユラと生きていこうと思う。