断絶覚え書き

書いたり書かなかったり

着うた

ここ数年の僕はそれこそ揺蕩うように暮らしている。じゃあと言ってはなんだけど、足の指で大地を踏み締め強く歩いている奴なんかほとんどいないだろ。そんなことをぼやいては溜飲を下げている。虚しすぎる。
そんな呆けた顔で時刻はちょうど12時。食卓で向かいに座る妻が「そういえば」と口を開く。何度飽きたかわからぬソシャゲから目を離し耳を傾ける。
「そういえば着うたってあったよね。今は誰もやってない気がするけど。」
僕が中学生のころは猫も杓子も着うたを設定していた。今はもうほとんど聞かない。存在してるのかすら怪しい。あんなにみんな使ってたのに。今では初期設定のマリンバだ。
「プリクラなんかもみんなしなくなってない?最近は落書きとかしないらしいよ。」
僕はあまり縁がなかったけれど、いまではもうガラケーのバッテリーに彼氏彼女とのツーショットプリクラを貼る文化はないのか。ガラケーがそもそもないか。
どちらもあまり縁深いものではなかったので「昔は〜」となりはしないけど、つくづく技術の発展は人間の本質に迫るものがあるな。と思わざるを得ない。
とどのつまり人間ってあんまり選びたくないんだろうな。もちろん、権利の話やそれに伴うお金の話は避けられないけれど、もし人間が全てを自分の思い通りにカスタマイズすることに喜びをかんじる生き物であるならば、実務的な問題は軽々と越えられたはず。選ばなくていいっていうのはそれだけでメリットになりうる。
重要度の変化もそれを後押ししたように思う。昔は携帯でできることなんて本当に数えるほどしかなくて、少しでも幅をもたせるためのアイテムとして着うたがあった。今よりもその機能の比重は重くて、言えば制限された中での自由。必然的にその価値も高まる。今はそもそも四六時中マナーモードで音を聞くタイミングすらない。
顔文字絵文字なんかもその類だ。いまやおっさんおばさんしか使ってない。一昔前は顔文字絵文字だけでラリーが続くほど一般的な機能だったのにもかかわらず。
翻って考えると、年配の方のみが顔文字絵文字を使うのは当然と言えば当然なのかもしれない。彼らのスマホの使い方は従前のガラケーと同じ使い方なんだ。彼らは未だ抑圧された自由の中でスマホを使っている。それは良いとか悪いとかではなく、ある種人間としては仕方ないことだし、僕や妻、その他全ての人間が辿りうるルートだと思う。

人間は歳を重ねるごとに脳みその可塑性が明らかに落ちていく。それは僕も例外ではなく、最近なんかは他人に諦め以外で寛容になることができなくなっている。
明らかに自分とは違うものを受け入れる体力というかエネルギーが以前よりも落ちている。
それはこれからも続くだろう。抗いながらも、ある程度織り込んだ動きで世界との弥次郎兵衛を保っていきたい。