断絶覚え書き

書いたり書かなかったり

パラサイトの感想

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Twitterで毎日タイトルを聞くパラサイトを見にいきました。タイトルからスピーシーズ的な怖いやつかな、と思ってたんですけどそうじゃないらしいので見てきました。

 

 

スッキリ映画でした。実はね、見る前に同じ監督のオクジャっていう映画も見たんですけど、こっちもまぁまぁスッキリでした。

 

しかし、映画館で見るにはきつい映画で、途中何度席を立とうかと思ったか、結局一回席をたってしまいました。これは別にこの映画が面白くないとかそういう話じゃなくて、完全に僕サイドの問題なんです。

 

子供の頃からホラー映画にしろなんにしろ、「ドキドキハラハラ」というのを安心して見られないんです。ほら、一時期「共感性羞恥心」って言葉が流行ったじゃないですか。「もうすぐ恥をかきそうなシーンが見られない」みたいな。そういう話と感覚は非常に似てるんです。家でもそういうシーンがあると意味もなく寝室へ逃げ込んだり、家の中をうろうろしたりして妻に「うるさい」とよくたしなめられます。で、この映画は途中そういうシーンになります。もうそうなるとダメ。目をつむり、耳を塞ぎ、そわそわしだす。そうしながら自分で「なんのために見にきてるんだ」と変な感覚になったり。なので、そういう映画はゆっくりうろついてオッケーな家で見たいです。

しかし、面白いことに、僕の実生活では羞恥心という概念が欠如してるんですよね。多分他人から見れば顔から火が出るようなことも割と平気。客観的に自分を見ることができないのかもしれません。ひどく主観的なFPSのような世界観で生きてるのかもしれない。

 

で、内容の方に話を戻すと、主人公の男の子の「チェウシク」の演技がめちゃくちゃうまい。かっこいい顔してるんだろうけど、劇中の情けない顔がすごい。こんな情けない顔なかなかできないってくらい情けない顔する。最後はえらい大人びた顔してる。

貧富の差を色や音、カメラワークなんかで印象的に使い分けてる感じがして見ていて面白かったです。

徐々に主人公一家が貧困を突きつけられ、変えがたい根本的な違いに苦しむその様子は見ていて苦しくなるものがありました。その苦しさや歪みをお父さん役のソンガンホが一身に受け少しずつ壊れていき最終的に失敗しない計画は無計画だ。と言い切るシーン。このあたりは常に胸を締め付けられる思いでした。

序盤はコメディ色が強いんですが、徐々にその笑いが狂気を孕んでいく異常性、ボタンの掛け違いが最後でまとまる快感。僕は、この映画好きでした。

 

感想としてはそれくらいかな。書く前に完璧な文章を目にしてフリーズしてたんですけど、まぁ書いたのでよし。また何か思うことがあったら付け加えます。

 

霊感マッサージ

ここ何年か、年末には必ずイベントが起こる。

一昨年は祖母が亡くなり、去年は僕が倒れた。今年は霊感マッサージを受けることになった。

 

経緯を話すと長くなるので割愛するけど、僕はなぜか「『気』の力で体のあんなことこんなこと治しちゃう」おじさんから霊感マッサージを受けることになった。

 

 

彼は本業は別にあり、半分ボランティアの形で霊感マッサージをしているのだという。小一時間彼は自分の実績を語り、僕から感じる異常を説明し、それをマッサージによって治してくれるそうだ。

 

この時点で僕は「うわ!なんて面白い玩具が来たんだ!」と大興奮。鼻息を荒くして彼の話に聞き入っていた。そもそも僕はドトールの喫煙席なんかで聞くマルチの勧誘が大好物。好きで好きでたまらない。なぜ僕を勧誘しないのか。こんなに楽しく話を聞くやついないのに。と常々思っているし、今も勧誘受付中です。

興奮しておじさんの話を聞いていると彼も火がついたように色々とパフォーマンスをし始める。周りの霊気が〜だとか僕にはよくわからないことをたくさん身振り手振りで教えてくれる。楽しくてたまらない。彼は調子が出てきたのか「ちょっとまって。向こうの方角からちょっと悪い気が流れてきている。」と言い、手のひらで壁を作るような動きを始めた。少し唸ったあと「一応、今『火』の気で壁を作ったから。」とご満悦。

 

手で壁を作りながら唸るおじさん。目を爛々とさせその異様な絵を見る僕。どっちもどっちだ。

 

ひとしきり話終えた彼は「よし、そろそろ始めるか。」と僕をを床にうつ伏せに寝かせる。僕は姿勢がすこぶる悪いので背中が背虫男のように盛り上がっている。背筋と腹筋のバランスがぶっ壊れてるんです。

そのガチガチになった背中に彼は手を置き温め、時折指で優しく押す。

あのね、めちゃめちゃ気持ちいい。すごい、たった15分くらいのマッサージだけど寝ちゃった。すごい。

で、施術が終わると背中のコリが消えてる。これは嘘でもなんでもなくて、本当に。実は去年倒れた時に背中の筋を痛めたのか全然体が回らなかったんだけどグルングルン回るの。これはどこの整体に通っても「なんで痛いのかわかりません。」と言われるばかりだったのに。

「えっ!すごい!!!えっ!?!?!?」の反応に嬉しそうに僕の体に置きていた異常のタネを説明してくれた。「気の巡りが〜」とか言ってたけど正直全く聞いてなかった。ただとにかく指圧がうまかった。びっくりするくらい。とんでもなく指圧のうまいおっさんだった。もはや気がどうとかどうでもいいくらい指圧がうまかった。

僕がすごいすごい。と一通りはしゃぎ終えると彼は帰っていった。

 

さて、僕は僕で彼が帰った後に少し考えた。彼は結局何者だったのかを。

結論としては「指圧のものすごく上手なおっさん」だと思う。多分だけど、彼は先天的に、ないし彼の生きてきた50年で得た経験の中で人体の構造を感覚的に理解したんだと思う。ここを押すとこうなる。ここの筋肉がここを動かしている。ここにはこの血管が流れている。そんなことを言語を通さずに理解したんだろうと思う。その結果、よくわからないけれど死ぬほど指圧の上手なおっさんが出来上がったんだと考えた。

でね、僕としては気だろうが技術の結果だろうがどっちでもいいんだなって。僕は体が楽になればいいし、方法はなんでもいいんだよね。今回の話も限りなく後付けで色々考えたけど、もしかしたら本当にスピリチュアルな話かもしれない。本当に僕の体には悪い気が溜まっていてそれを彼の力で取り除くことによって瞬間的によくなったのかもしれない。けど、理由なんてどうでもいいんだなって。

 

 

「科学的じゃないことは信じない。」って話。すげぇバカな話だなぁと思う。現代の科学で証明できないことってまだまだたくさんある。いわゆる霊的な現象も現状科学で説明できてないだけで今後説明がつく日がくるかもしれない。今わかってないこと以外は信じないというのはひどく科学的な考え方ではないと思う。本当に科学を信奉するのであればあるほど、「非科学的」な説明のできない事象を受け入れやすいと僕は思う。ただまぁ、みんなが科学者ではないので身近な言語や価値観で現象に理由をつけていった結果が土着宗教であったり、スピリチュアルな話なんじゃないかな。そんな考えが昔からあるので実は今回のおじさんも割と受け入れ態勢はできていた。彼の理屈は全然ピンと来ないけど、まぁなんかそういう世界があってもおかしくないのかな。そういうことが起こってもおかしくはないのかな。そんな風に聞いていた。

 

 

なんにせよ年末に背中の痛みが消えたのはとっても楽でした。おじさんありがと。

 

普通でないこととその処方箋

 

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

  • 作者:こだま
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/09/14
  • メディア: 文庫
 

 

 

ここは、おしまいの地

ここは、おしまいの地

  • 作者:こだま
  • 出版社/メーカー: 太田出版
  • 発売日: 2018/01/25
  • メディア: 単行本
 

 

 最近思い出したように本を読んでいる。

 こだまさんは僕のフォロワーの人がしきりに推薦しているので前々から気になっていた。が、ちょっと怖くて二の足を踏んでいた作家さんだ。タイトルも「夫のちんぽが入らない」とただ事じゃない。

 

 結論からいうと、柔らかいところをずっと殴られているような。とんでもない本だった。けど、止まらない。スルスルと入ってくる。不思議で不思議でしょうがない本。

 

こだまさんの夫婦生活や家族関係なんかを書いたエッセイなんだけど、閉鎖的な村で生まれたこだまさんの普通との戦い、同調圧力への反発。そのあたりが余すところなく詰め込まれた私小説。

幾度となく普通を強要されるシーンが出てくる。その描写が細かく丁寧に、丁寧すぎるほどで、その度に胸をえぐられるような、全く僕と状況は違うにも関わらず他人ごとに感じない、感じさせない。そこがとても辛かった。読みながら精神力を直に消費しているのがわかる。読んでこれなら書いてるこだまさんはどうなんだろう。と思うとまた頭を抱える羽目になった。

全編を通じて夫婦間のコンプレックスとしての「夫のちんぽが入らない」がつきまとう。周囲から普通を求められる苦悩や、職場での苦悩、それらのベースに幼少期の体験や夫婦間のコンプレックスがあり、物語が進むにつれそれらとの折り合いの付け方を身につけていく。

 

 

 

 

 

 僕は別に親との明確な衝突や、両親からひどい仕打ちを受けたこともない。学校で誰かと話すのに赤面したりすることもない。身体的なコンプレックスもないわけではないけど、思い悩んだことはない。比較的ひどいことのない人生だと思う。なんなら運のいい人生だと思う。根拠のない自信だけは人一倍ある。

読めば読むほどこだまさんと僕は真逆だ。そんな僕がこの物語に感情移入できたのは確実にこだまさんの旦那さんのおかげだと思う。彼とはシンパシーを感じる。もちろん彼ほど真面目でもないし、真摯でもない。人生をついでで生きてる僕とはほとんど違うけれど、根っこの思想というか、この両目が向いてる方向が似ているように感じた。

「夫のちんぽが入らない」を読んだ後すぐに「ここは、おしまいの地。」を読んだ。厳密に言えば、やっぱりちょっと躊躇した。キツいかもしれないぞ。大丈夫かな。そんな精神状態とは裏腹に体は素直にアマゾンでポチっていた。体はこだまさんの人生の断片を欲しがっていたのかもしれない。

「ここは、おしまいの地」を読んでなおさらこだまさんと僕はまるで違う。と思い知らされた。

僕は言いたいことを溜め込まない。すぐに口に出す。モヤモヤすればその場で解消できるまで暴れ散らかす。両者ボロボロになろうとも最後までやってしまう。他人には無関心だし、誰からなんと思われようとどうでもいい。しかし、普通はそうでない。と気づいたのは恥ずかしながらつい最近のことだ。そうだ。僕もこだまさんとは逆のベクトルで普通ではない。

こんなに傍若無人に生きてても心は疲弊するんだ。痛覚がぶっ壊れてるだけで矢が刺さってないわけじゃない。血が出てないわけじゃない。気づいたら足にきてて、10カウントが頭上で鳴り響いてる。時すでに遅し、覆水盆に返らず、いつ何時グッバイ世界になるかわからない。

 

ちんぽ物語終盤、こだまさんはコンプレックスから徐々に解放されていく描写がある。それは諦めというには希望の色が強いような。前向きな諦めというか、全て織り込んだ上でやっていくというか。コンプレックスを飲み込んだという表現が近いと思う。これは年月を重ねたから言えることなのかもしれない。けれど、どんなルートを通ろうと、他ならぬ自分との折り合いの付け方を見つけたのは本当に救われた。誰がって僕が。これからもどんなところに沼が広がっているかわからないけれど、とりあえず今は前を向いて立ってるだけでいいじゃない。そんな風に思えた。

 

「ここは、おしまいの地」を読むとなお一層その感覚は強くなった。前作でははちゃめちゃに地元のことを言っていたのに、少しずつ家族との関係性や集落の認識も明るいものに変わっていっているように感じた。

 

 

最近Twitterでこだまさんのことをフォローし始めた。多分、僕はこの人のことが好きなんだと思う。作る文章も、その苦悩も、好きなんだと思う。対極に位置する人間として、同時に普通でないことに悩む同胞としてこだまさんの健やかな未来を切に願います。

 

 

 

追記

エッチのシーンの「でん、ででん。」と旦那さんの「キジトラ」のくだりは笑っちゃった。

 

 

結婚式

先日、私事ながら結婚式をしました。

私事じゃないこと書かないんですけど。

 

さて、色々と発見やらあったので置いときます。

 

結論として、結婚式いいよ。挙げれるなら挙げた方がいい。でも、一回でいい。

ほとんど準備していない僕でも二度するのは大変だなと思った。

僕は本当にジッとできないどうしようもないやつなので、打ち合わせなんかも行けなかった。なので準備はほとんどというか全て嫁がしてくれた。

多分普通に考えたら離婚案件、小町なんかだと釘バットフルスイングな話なのはわかってる。そもそも、僕は結婚式がしたくなかった。なんのためにするのかもピンとこなかった。それでも、嫁は準備をしてくれて、見事に結婚式を成功させた。

ものすごく尊敬するし、僕の性質をよくわかってくれてて、なので僕は日に五度嫁のいる方角に向かって礼拝をしなきゃいけない。

 

結婚式の準備を手伝ってくれるプランナーさんにはものすごく嫌われてたと思う。準備は手伝わない、打ち合わせにもこない。式中に僕が喋らなきゃ行けないシーンが二度あった。プランナーさんに「お願いだからテンプレを見て練習してほしい」と頼まれた。結局それもしなかった。だからとにかく嫌われてたと思う。

 

僕がなんにも準備してなくても、結婚式当日はやってくる。朝8時に集合し色々準備をし式を挙げ披露宴をした。

60人前後の小さい式だったのでそんなに大仰なものではなかったが、それでも神父さんの前で愛を誓い、キスをし、全身に花びらをかぶる。どう考えても非日常だ。そんなこと生きててそうそうない。このあたりでようやく僕は目が覚め始めた。文字通りめちゃくちゃ眠かったので。

招待客の比率は1:3で向こうの方が圧倒的に多い。嫁の学生時代の友達が入れ替わり立ち替わり席にきて写真を撮る。僕の方といえば5人ぐらいがワッときて、撮ったらそれで終わりだ。

それが、なんというかとってもよかった。嫁の交友関係を見れてなんていうかよかった。嫁がニコニコしててとってもよかった。結婚式はお嫁さんのためにやるんだ。という話をどこかしこで耳にする。僕も言葉では理解してた。けど、嫁のドレス姿、泣きながら友人代表スピーチをする嫁の友達、僕らが入場した時点でハンカチを手放せない義父さん。そういう諸々を見て僕は本当の意味でようやく理解した。

 

 

 

僕は普通でないという認識がとても強い。別にそれはどうでもいいことなんだけど、人間って生きていくには何かと普通の方が楽な場面が圧倒的に多い。なので、うっすらと普通になりたい。と常に思っている。普通とは。みたいな話あるけど、そんなの答えなんてないから考えたりするだけ無駄です。いずれにせよ、僕は普通の人が普通であるレンジを大幅に超えた箇所がいくつかある。結婚することで、ある程度普通の仮面をかぶれていたと思っていた。でもそうじゃなかった。結婚式、これこそが僕が真に普通の仮面をかぶるための大事な儀式だったんだ。だからこそ、僕だからこそ、結婚式は挙げなければいけなかったし、成功させなければいけなかったんだ。終わってからようやく気づいた。

これは、皮肉や、うがった話じゃない。普通って結局他者との関係性に帰結するものなんだ。対外的なイベントとして結婚式はものすごく大きいものだ。

新郎の関係者に、あるいは新婦の関係者に二人の正常性を示すものなんだ。

 

 

嫁の無限とも言える愛と尽力の上に今回の結婚式は成功を納めた。

いろんな人が来て、いろんなことを喋って、いっぱい笑った。余計なことを言わずともとっても楽しかった。だいたい、人生でこんなにちやほやされるの生まれた時と死ぬ時以外に結婚式くらいしかない。意識がはっきりしてるのは結婚式だけだ。そりゃぁ楽しいはず。

 

いまだにちょっとびっくりするイベントだったのでなかなかまとめられてないけど、僕はとにかく結婚式をしてよかったと思う。嫁の努力のおかげなので能天気に楽しかったというのも憚られるけど、楽しかった。もしできる環境であるならした方がいいと思う。

 

 

あっ、そうだ、僕のスピーチなんですけど、タイムスジケジュールが頭に入っていなかったので唐突にマイクを渡され適当に喋りました。下準備も何もなしでペロペロっと喋りました。緊張という概念がない人間で本当によかった。

 

嫁には感謝しても感謝しきれない。愛の誓いも嘘にはできないな。と強く思って生きていきます。

JOKERの感想

さて、ようやく観てきました。JOKER。

感想書こうと思いますけど、まず情報量が多すぎてちょっといまだに整理仕切れてない部分もありますし、ネタバレするので悪しからず。

 

まず、映画としてなんですけど、めちゃめちゃスッキリする話でした。とにかく僕はスッキリする話じゃないと体が受け付けないのでもう最高でした。文句ないベストオブスッキリ。スッキリしたい人は観てください。スッキリできます。

「コイツやなやつだなぁ。」と思った5分後にはだいたい死んでる。序盤は主人公アーサーの苦悩のパートなのでなかなか前に進まないですけどラスト1時間はすんげぇスッキリするくらい死んでいきます。

 

で、前評判をさんざ聞かされて観に行ったんです。Twitterで散見したのが「誰しもがジョーカーになりうる」といった内容。

これ、僕はあんまりそうは思わなかったです。というかね、それ言い出したらなんでもそうじゃん。っていう。

とどのつまり環境なんだと思います。主人公は持病から不遇な環境を強いられますが、周りの環境もそれなりに悪く、貧困層の不満が今にもはち切れそうな、そんな環境。

1980〜1990年前半のニューヨークをモデルにしていることもあってそのあたりの描写は非常にリアルでした。そういう複雑な要因が絡み合って偶然が偶然を呼び、ジョーカーというある種の特異点を生み出したわけです。誰しもがそんなことなるかよ。なぁ?

 

僕はそれよりもアーサーの心理描写のパートの方が興味深かったし、「本当にそれ。マジで。」という場面が非常に多かったです。

劇中に「心の病を抱えているものにとって最悪なことは『世間の目』だ。それらはいつも『普通にしていろ。』と強要してくる。」というセリフがあります。

これはアーサー自身がネタ帳に書く文章なのですが、後半の部分は利き手でない左手で書きます。これがね、言いようもない苦悩を見事に表している。そんな風に僕は思えました。もしかしたら何か意図とか元ネタとかあるのかもしれないんですけど、僕にはわかりませんでした。

他にも「黙っていい子にしてろ。」というセリフなんかもありました。

作品を通じて、「普通」という圧力が彼、そして観客を抑えつけます。

「普通」でない当事者である僕はとにかく「きっついよなぁ。辛いよなぁ。わかるなぁ。」とアーサーに自己投影してしまいました。

おそらく先に挙げた「全人類ジョーカー化」を考えた人たちも共感したんだと思います。これは別に僕のような少しおかしい人間じゃなくても多かれ少なかれ人生やってたら感じるものなんじゃないかな。そこを刺激されたんだと思う。

 

物語中盤でアーサーは殺人を犯します。こっからです。すんごいのは。

アーサーは世界での存在証明としての道具、ないしやりきれないはけ口としてベストアンサーを見つけるわけです。「殺しちゃえばいいんだ。」と。

R15なのは残虐なシーンだからじゃないと思いました。分別つかない子供がこれ見ると感化されて身近に銃があるアメリカなんかだと模倣犯が出かねないからだと思います。

なんにせよ前半の苦悩を吹き飛ばすような勢いで自分の中のわだかまりを殺人によって解消していくアーサー。

劇中で描かれていない幼少期からピエロになるまでの人生を鑑みるとあまりにも急展開です。

これはね、殺人じゃなくてもみんなありうるな。とそんな風に思いました。

以前少し書いたことがあるんですが、自分の中の怪物が大きくなる感覚。まさしくジョーカーそのものです。

年を重ねるごとに他人に鈍感になっていく怪物。どんどん我を通さんとする怪物。飛び抜けた偶像としてジョーカーはあまりにぴったりで少し恐ろしくもあります。

 

うーん。まだまだいっぱい書くことありそうだけど、全然整理できてないのでこの辺りにしておこうかと思います。

観た人と話すともう少しいろんな思案が出てきそうですけど、パッと思いついたのはこれくらいです。

 

あ、あとね、僕はあんまりジッとしていられない性質なのでエンドロール途中で出ちゃうんです。でも、まぁよくあるじゃないですか。なんかほのめかす映像が流れたりするやつ。JOKERはね無かったです。なので、もし僕と同じようにソワソワしちゃう口の人は迷惑にならないようにこっそり抜けてもいいと思います。本当はエンドロールまできっちり観た方がいいんですけどね。

 

それくらい。僕が今言いたいことは。

 

近況

今の現状を記して置こうと思います。

 

 

えー、現状は非常に芳しくないです。

まず、全体的に立ち位置がホワホワしてます。

会社でも、それ以外でも。

現在、懇意にしている先生の元プログラミングを勉強していまして、その後10月より経営学サイドの勉強を本格的に始める予定です。

 

勉強していて、単純に「これって最終的におれどうなるの?」みたいなのが拭えないのが不安定な原因だと思います。

 

あとはね、単純に根が死ぬほど不真面目な僕が真面目ぶってる違和感みたいなのですかね。

なんだかから回ってる感じ。そういうのが影みたいに付きまとってるんですよね。

 

で、同時にこれは一過性のものだと理解しています。

このまま進んでいくなりすることでいつのまにか点と点が繋がって線になることも十分理解しています。

なので一応ここに残すだけ残しておきます。墓標みたいなもんです。

気が向いたら追記します。

 

 

 

ADHDがわかるまで

昨今、インターネットではADHDという単語を目にする機会も増えてきたと思います。

その傾向などが羅列されたツイートや記事を見かけるたびに「あれ?もしかして私ADHDかしら」と思う方も多いんじゃないでしょうか。

今日は僕がADHDだとわかるまでにどのような経緯を辿ったのか。そんなところを残しておこうと思います。

 

僕は、そもそも鬱の症状を自認して心療内科へ足を運びました。夜寝れないだとか、単純に気分が落ち込んで動けない。とか。そういう症状です。

これが2017年末ごろの話です。

6年弱同棲していた彼女に浮気され、暴力、暴言を浴びせられ精神的に参ってしまって別れた直後の話です。

好きだの嫌いだのではなく、単純に殴られたり、蹴られたり、日常的に罵倒されたりなどの日々を3ヶ月ほど受け、僕は到底僕を保てない状況でした。

真っ当な判断もつかず、人間を信じることはおろか、自分の枠組みさえ不確かな時期でした。

家に帰れば思い出よりも恐怖がフラッシュバックし気が狂いそうになるので家にも帰れません。毎日家はあるのにホテル暮らしをするというわけのわからない状況でした。お金が湯水のように飛んでいきました。

幸い、仕事は証券会社の営業でしたので、淡々と仕事をすれば周りに迷惑をかけるようなこともなく綱渡りのような生活でした。

これって、男女のパターンが逆だったらDVだのなんだので大騒ぎなんでしょうけど、この場合被害妄想で済まされるみたいですね。

まぁなんにせよ、このままではいつ死んでもおかしくないと焦った僕は病院に駆け込みました。

「薬でもなんでもいい。とにかく今の状況から抜けないと大変なことになる。」

そんな気持ちだけで、藁にもすがる思いで予約の電話をかけたのを覚えています。

 

慣れていない心療内科につくと大勢の人が並んでいました。

なんとも困っている人はたくさんいるのだな。とびっくりしました。

診療の結果、鬱とPTSDの診断を僕は受けました。

 

PTSDは俗に言うトラウマです。

フラッシュバックが消えないこの病気はなかなか治らず早い人で2〜3年の治療が必要とのことです。

僕は愕然としました。これが2、3年も続くのかと。

僕は恐怖しました。思い出すたびに震えて息ができなくなることがこの先数え切れないほどあるのかと。

鬱症状はそこからくるというものでした。

 

そこで同時に先生からはこんなことも言われました。

「仕事中困ったりすることはない?例えば同時に作業できないとか。物忘れがひどいとか。」

先生の挙げる「困ること」というのは僕が日々思っていることをそのまま言われたようで、ただただ頷くだけでした。

「ADHDの気があると思うからよければ別の日に検査だけでも受けてみようか。」

先生の言うがままされるがままに翌週テストを受けました。

先生とは別のまた新しいカウンセラーのお姉さんと対面で「WEISテスト」というものを受けました。

これがなかなかどうして難しくて、言葉を説明したり、パズルをしたり、間違い探しをしたり…

2時間ほどをかけようやくテストは終わりました。

結果は知っての通り特性あり。つまり高い確率でADHDだろう。とのことです。

7項目くらいのテスト内容なんですが、その数値の出来不出来が激しいとADHDと診断されるそうです。

僕は数字・言語はとにかく得意だけれども、人の感情を読み取ったり、耳から入ってくる情報を処理するのが異常に苦手だということでした。

また集中力が低く、意識がいろんなものに移り変わりやすい。というのもADHDの特徴だそうです。

まさしく僕はそうで、仕事中上司が僕に話しているにも関わらず他の人に声をかけられるとそっちに意識が行ってしまい叱られるという状況は多々ありました。

この結果を受けて僕は「でしょうよ。」という感想以外何もなかったです。

言われてみればADHDという単語をネットで見かけて、その特徴を見るたびに「僕のことなのか?」と思っていましたので、今回のテストはいわば答え合わせのようなものでした。

何度か通院しているうちに今度は自閉スペクトラムの気があると言われ、ネットスラングおなじみの「アスペ」ではないか。ということになりました。

異常に固執したりする側面はまさしくそうなんだそうです。

とはいえ、先生が言うには自閉症自体がスペクトラム、つまり重〜軽度がグラデーションのようになっており明確にテストして診断というのがしにくいそうです。

 

そこから、投薬をはじめ、現在にいたります。住むところが変わってしまったので先生も変わりましたが、基本的には変わらず薬を飲んでいます。

効果が出ているのかどうかは正直まだよくわかっていません。飲んでいる薬がストラテラというもので、コンサータより効きは遅いそうなんです。

 

前置きが長くなりましたら僕がADHD、ないしASDがわかるまでの経緯はこんな感じです。専門のかたから見たら話したらすぐにわかるそうです。「あっ、ADHDだな」とか。

 

いまだに僕を壊した彼女のことを許すつもりはないし、今のところPTSDも消えずに度々壊れそうになりますが、どうにか今はまだ生きてます。ADHD自体、生活の工夫や投薬、またその両方で人生をうまく回すことができる障害です。もし生き辛いな。と感じて我慢するくらいなら病院に行って解決策を考える方がいいと僕は思います。

 

2000字を超える文章を夜中に書いてるのも変な話ですけど今回はこれで終わりです。