断絶覚え書き

書いたり書かなかったり

旅する木 読書感想文

 

 

先日薦められて星野道夫さんの「旅する木」を読んだ。気持ち良すぎてクラクラしたので読書感想文を書く。
薦められた時は「知らん人だな。」と思っていたんだけど、思い返すと高校かなんかの教科書に載ってた気がする。当時は何食わぬ顔でサラリと流していたがおそろしい話だ。

星野道夫さん。大学卒業後、ほとんど道場破りのような勢いで単身アラスカ大学にのりこみ、以降亡くなる44歳までのおよそ18年間をアラスカを拠点とし様々な自然をテーマにした写真を残している方だ。
旅する木はそんな彼のエッセイ集。その全てに彼が感じた自然が盛り込まれており僕を圧倒した。
技術や知識はもちろんのこと、とにかくそのバックボーンというか背後に透けて見える揺るがぬ自然の存在が良かった。作中にもあるが「生かされている」という感覚がその壮大な自然を切り取っている文章からも見える。自然と人間の関係性を常に精査して写真や文章として残す。この意味はどれだけ大きいことだろう。
僕はアラスカに行ったことがないが、一度だけ、アメリカから帰って来るときにアラスカ上空を通るルートだったことがある。機上から見える白銀の山々は遥か上空からであっても息を呑む景色だった。作品を読んでいる最中山の描写があるたびに脳裏をよぎる。それほど強烈で何か残さねばという気持ちにさせるものがあった。

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作品を読んでるとテレビでしか見たことない映像なはずなのにまるで実体験をしたような、もしくは全く違う場所なのに自然という共通項で括られた見たことのある景色がフラッシュバックする。そういう自分の意思がどうにも介在できない存在を前にしたときのある種の解放感を常に感じることができた。
僕は今、自然とは程遠い場所で毎日をクルクルと回すように生きている。遠すぎて忘れかけている人の営みの根底にあるそれを再確認させられる。そういう本だった。人は皆彼のように生きることはできないけれど、彼の遺したものから得られるものは多い。
彼は44歳のとき熊に襲われて亡くなっている。作中でもたびたび人の死について書かれているが、順番が回ってきた。という感じじゃないだろうか。彼が生きていたら残せていたものを考えると悲しく思うし、何より彼自身がいなくなってしまったことはただの読者である僕でさえ悲しい気持ちになる。だけど、それはどうしようもないことで、彼の周り、果ては読者まで悲しむことしかできない。もちろん、こればっかりは当事者じゃないと分からない。ただ、悲しいけれどどうしようもないことは避けられずあるからこそ、死者の遺したものや死後の世界などを考えることでどうにか折り合いをつけているんだと思う。

7月から近所で星野道夫展がある。タイムリーな話だ。写真の方はほとんど見たことがなかったので時間を見つけて行こうと思う。

トラブル


今週から九州も梅雨入りした。
雨は嫌いだ。頭は痛くなるし、髪の毛は収拾がつかなくなるし。何より湿気がダメだ。ぬるい水の中を動いているような気持ちになる。動きは自然と鈍くなり、頭の働きも緩慢になっている気がする。
年に1回くらいの頻度で何しても上手くいく日がやってくる。運がいいとかそういう話じゃなくて、会話がスムーズに行えるとか、とにかく全ての瞬発力がマックスまで引き上げられた状態だ。そういう日は決まって晴れだ。対して雨の日はどうだ。息苦しくて、自分のことで手一杯。とても誰かと実りある会話なんてできない。
というか、365日の内200日くらいはそんな感じだ。寝起きなんて日本語が喋れているとは到底思えない。
もし僕が新米アイドルで寝起きドッキリなんて仕掛けられたらお蔵入り間違い無いだろう。

以前Twitterでも話したことがあるけれど、ここ数年は特にひどい。ぼんやりとただ夢の続きみたいな毎日を送っている。モヤがかかってなんだか居心地の悪い、歯切れの悪い感覚が体にまとわりついて離れない。もちろん、1日中というわけではない。瞬間的に回路が繋がる時もある。どのタイミングだろう。
そして、一つの答えに辿り着く。非日常だ。大それた話ではなく、いつもと違う、普通と違う状況の時に僕は僕として目が覚める。

今日も喫茶店でボッーとしていた。
仕事中なのか、僕の近くの席で小声で電話をかけている若い女性。彼女に明らかに纏う雰囲気の違うオバさんが唐突に怒鳴る。
「アンタ!ウィルスを撒き散らしているのよ!控えなさい!」
オバさんが猛る。店内は凍る。オバさんと店内の温度差がどんどん広がっていく。地獄だ。
僕はこういうとき、とにかく耐えられない。凍った空気にヒビを入れるように吹き出してしまう。
「何がおかしいのよ!」
標的が僕にスライドし詰め寄るオバさん。こんなに顔を赤くして怒る人なかなか見れないなと思った。
「ソーシャルディスタンスでお願いします。」とオバさんの前に手をかざす。
この辺りで何人か笑ってる。電話のお姉さんも笑ってる。
この後はオバさんが鼻息荒く喫茶店を出ていって終わるだけなので特筆すべきとこもない。
と、ここまで書いたけど、別に僕はスカッとジャパンが言いたかったわけじゃない。実際は「ソ…ソーシャルディスタンス…」みたいに吃ってた気もする。脳内で気持ちよく補完してるだけかもしれない。ただ、紛れもなくあの瞬間僕の脳みそは目が覚めていたし、何よりワクワクしていた。少なくとも身は軽かった。

昔から変な人がいるとワクワクしてしまう。以前からそういう傾向はあった。しつこく客引きをしてくるキャッチを煽りすぎて収拾がつかなくなることもあった。宗教の勧誘を受け家についていったこともあった。チンピラに「表に出ろ」と言われ彼のベンツの助手席で説教を受けたこともあった。海外では違法タクシーに捕まり拳銃を突きつけられたこともあった。言い出せばキリがない。が、その全てでニコニコワクワクしていた。妻には「いつか刺されるよ」と常に言われている。

決して武勇伝じゃない。鼻を高く、胸を張って話すようなことじゃない。誰に彼に話すようなことじゃない。ちょっと話が詰まった時に出す小ネタばかり。

本当にいつか刺されて倒れるかもしれない。そうならない程度に頭の中でパチパチと火花を散らせながら生きていきたい。

着うた

ここ数年の僕はそれこそ揺蕩うように暮らしている。じゃあと言ってはなんだけど、足の指で大地を踏み締め強く歩いている奴なんかほとんどいないだろ。そんなことをぼやいては溜飲を下げている。虚しすぎる。
そんな呆けた顔で時刻はちょうど12時。食卓で向かいに座る妻が「そういえば」と口を開く。何度飽きたかわからぬソシャゲから目を離し耳を傾ける。
「そういえば着うたってあったよね。今は誰もやってない気がするけど。」
僕が中学生のころは猫も杓子も着うたを設定していた。今はもうほとんど聞かない。存在してるのかすら怪しい。あんなにみんな使ってたのに。今では初期設定のマリンバだ。
「プリクラなんかもみんなしなくなってない?最近は落書きとかしないらしいよ。」
僕はあまり縁がなかったけれど、いまではもうガラケーのバッテリーに彼氏彼女とのツーショットプリクラを貼る文化はないのか。ガラケーがそもそもないか。
どちらもあまり縁深いものではなかったので「昔は〜」となりはしないけど、つくづく技術の発展は人間の本質に迫るものがあるな。と思わざるを得ない。
とどのつまり人間ってあんまり選びたくないんだろうな。もちろん、権利の話やそれに伴うお金の話は避けられないけれど、もし人間が全てを自分の思い通りにカスタマイズすることに喜びをかんじる生き物であるならば、実務的な問題は軽々と越えられたはず。選ばなくていいっていうのはそれだけでメリットになりうる。
重要度の変化もそれを後押ししたように思う。昔は携帯でできることなんて本当に数えるほどしかなくて、少しでも幅をもたせるためのアイテムとして着うたがあった。今よりもその機能の比重は重くて、言えば制限された中での自由。必然的にその価値も高まる。今はそもそも四六時中マナーモードで音を聞くタイミングすらない。
顔文字絵文字なんかもその類だ。いまやおっさんおばさんしか使ってない。一昔前は顔文字絵文字だけでラリーが続くほど一般的な機能だったのにもかかわらず。
翻って考えると、年配の方のみが顔文字絵文字を使うのは当然と言えば当然なのかもしれない。彼らのスマホの使い方は従前のガラケーと同じ使い方なんだ。彼らは未だ抑圧された自由の中でスマホを使っている。それは良いとか悪いとかではなく、ある種人間としては仕方ないことだし、僕や妻、その他全ての人間が辿りうるルートだと思う。

人間は歳を重ねるごとに脳みその可塑性が明らかに落ちていく。それは僕も例外ではなく、最近なんかは他人に諦め以外で寛容になることができなくなっている。
明らかに自分とは違うものを受け入れる体力というかエネルギーが以前よりも落ちている。
それはこれからも続くだろう。抗いながらも、ある程度織り込んだ動きで世界との弥次郎兵衛を保っていきたい。

 

強い

僕はタバコをよく吸う。ほたっといたら無限に吸っている。

こないだコンビニでタバコを1カートンお願いした。僕の吸うタバコはホープといって普通のタバコが1箱20本入っているのに対して10本しか入ってない。それもあって普通のカートンは10箱入りなんだけど、ホープに関しては20箱入ってる。そもそもカートンって伝わってるか?あの、パチンコ屋さんの景品とかでお父さんが持って帰ってくるやつ。

店員さんは1カートンをレジに持ってきて「えー、カートンですと。」と言いながらおもむろに僕の求めるカートンの外装をビリビリと破り始める。20箱入りのそれが欲しい僕は「は?」カートンのことを10箱の単位だと信じて疑わない彼も「え?」。あまりに当然と言わんばかりの行動に混乱した僕は「それ、それください。全部。」と折れてしまった。「じゃあはなから開けねぇよ。」みたいな顔をされ、なんだかよくわからない空気になって会計をすませコンビニを出る。
急に不安になった僕は急いで調べる。ふしぎなことがあればすぐに調べるのが僕のいいとこだよね。

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結果としては僕が正解だったけど、「さも当然」という態度は他人の常識をグラグラとさせ判断を曖昧にするものだな。と思った。押して通るやつが強いはずだわ。

麻疹

その昔、ニコニコ生放送というものが存在した。今どうなってるかはわからない。

 

高校生の僕は一時期ニコ生に興じていた。熱心に見ていたのではない。やっていたのだ。殺伐としたMMORPGばかりしていた僕は癒しを求めてその世界に進んだ。リリースしたばかりのそれは「枠」という概念が存在し、サービス内で同時に放送できる数に限りがあった。今も使われているかは知らないけれど、「枠乙」はここが出発点だったと思う。

約1年間をまるまる黒く塗りつぶすような放送ばかりでアーカイブがどこかに残っていたら苦しみの果てに死んでしまう。主にやっていた内容といえば、当時流行っていた「青鬼」の実況や犬もくわない雑談放送といった具合で紛うごとなき黒歴史だ。
当初こそ、ラジオ番組を持ったようで楽しく放送をしていた僕だが、視聴者数や来客数が可視化されるという一般的な機能もあいまって次第に「いかに人を集めるか」という方向にシフトしていった。やれ時間を変えてみたり、内容を変えてみたり、色々な方法を試した。
当時のインターネットは今よりもっと狭く当たり屋みたいな人たちも少なかった。狭いコミュニティの中、アンパンマンみたいな世界観でやってるチャンネルは高校生の僕にはとても居心地が良かった。ある日唐突に「しょうもな」と思うまでそれは続いた。

 

思えば、あの頃が僕の承認欲求のピークだと思う。他者の評価を求め、従順に調整してさらなる評価を求める。ちょっとした妖怪みたいな存在だった。果たしてあれは消したい過去だったのか。そう考えるとそれがそうでもない。シャワーを浴びながら叫びたくなる過去ではあるけれど、消したいとは思わない。あの経験は、高校生の限定的な時期に通ることができて本当に良かったと今では思う。今なら思える。
そういう類の話はいくつもある。浅野いにおだってそうだ。BUMP OF CHICKENも、太宰治も。10代後半に通っておくべき道が存在する。それらの作品が悪いだとか陳腐だとかそういう話じゃなく、麻疹みたいなもんで、大人になってからだと事態が重症化する可能性がある。
もう少し踏み込んでかんがえると、それは作品に依存するものでないと思う。例えば僕は先日アニメ版エヴァを見直した。だからといって極端にキャラクターと自分を重ねることはなかったし、まして行動を真似るようなこともない。先にあげた作品群もそう。当時はフィクションや歌詞に自分を重ね、あるいは重ねようと自分を寄せていったりした。たくさんの作品に出会うことで、「よくある話」「みんな考えることはそんなに変わらない」と気づき始め次第に無理な同一化をしなくなる。エヴァなんかは顕著だと思う。アニメ版ラスト2話なんかは特に「俺の話をしてるのか?」と思う中学生を量産したと思う。

 

黒歴史っていえば、とどのつまり自分がどこか特別な人間だと根拠もなく信じることだと思う。もちろん実際に特別な能力を持ってて突き抜けていく人もいる。ただ、悲しいけれど多くの人は失敗や恥を持ってしか事実を理解できない。10代のうちに夢を見ているところを誰かに、あるいは何かに殴られ目を覚ます経験をしておくべきだと僕は思う。大人になると面白いくらい横っ面を張られる場面は減る。もしくは生きてきた年数が邪魔をする。夢を見たままそのまま死ねればそれにこしたことはないけれど、そうするには鋼の心臓を持ち、とにかく強く生きるしかない。それこそ特別な人間にしか通れない修羅の道だと思う。

 

こう言ってる間も僕はまたどこかで世界から張り手を食らうことでバランスを取りながら現実と夢を行ったり来たりしながら生きてくんだと思う。それはそんなに悪いことでもないのかなと今は思えるようになってきた。これからもユラユラと生きていこうと思う。

生き物

 僕の家はハリネズミと猫を飼っている。どちらも終わりのない可愛さを備えているのだけれど、2匹の可愛さは少し違う。

 

 ハリネズミの可愛さは造形としての可愛さに分類される気がする。まず、彼女は懐かない。慣れることはあっても懐くことはない。人間を前にしてもパブロフの犬よろしく、池の鯉が手を叩けば群がるのと同じく、餌を求める。そもそも、人間を人間と認識できていない節がある。雨や風、そして人間。大自然の一部として捉えられているように思う。彼女は快か不快かの世界線で生きていて、そのベースは空腹であったり、非常に本能的な行動原理に基づくと飼っていてつくづく感じる。僕らはその健気さに心を奪われ、懸命に皿に顔を突っ込むその姿に可愛さを感じている。

 

 一方猫はどうだろう。彼らは恐ろしいほどにしゃべる。明らかに感情が存在しているように思うし、求めていることがハリネズミのそれより多様だと感じる。餌をくれから始まり、撫でろ、抱っこしろ、しまいにはウンコ報告。僕らがかまっていないと始終鳴いている。もどかしいのは言葉が通じないことだ。彼は必死に鳴くが正確に伝わることは非常に稀で、僕らは状況から判断するしかない。トライ&エラーの果てに彼の言葉をぼんやりと理解する。しかし、朧げながらもコミュニケーションがとれるとそれはもう人間に対して感じる可愛さに近くなる。

 

 話は変わるけど先日義姉が出産した。里帰り出産ということもあり、赤ちゃんに何度か遭遇したけれど、意思疎通なんてもってのほかだった。僕の中ではハリネズミと似た感覚だ。快か不快かで生きている。この後感情が形作られて、しゃべるようになるらしいから人間ってすごい。

 

 

 先日、行きつけの整骨院で「首座ってきましたね」と言われた。薄々そうじゃないかとは思っていたけれど、つい最近まで快不快で生きていた赤ちゃんだと発覚した。このペースだと向こう300年くらいかけて徐々に感情を形成するのかもしれない。

発見と懺悔

 年齢を重ねるごとに自分の好き嫌いや得手不得手が細かく認識できるようになった。
 今まで「自分はこんな人間だ」と思っていたのが細分化したり原因を究明しようとグルグル考えているとあるとき突然邂逅するあの感覚は嫌いじゃない。
例えばそう、僕は幼い頃からカツ丼やら親子丼、天丼...つまり丼ものが好きだと思い込んでいた。定食屋に行っても迷わず丼を探し、丼を吟味し、丼を食べる。長い間丼とは相思相愛の関係だと思い込んでいた。
 ハタチを過ぎてしばらく経った頃、カツとじ丼をかきこんでいると、最終局面、ご飯と出汁がないまぜになったソレを見て「あれ、水気を含んだご飯、あんまり好きじゃないな?」と気づいてしまった。思い返せば僕はおかゆやらお茶漬けやら、果てはコーンフレークの甘い牛乳のフェーズまで。僕はそれらがあんまり好きじゃない。
 これは僕が変わったのではなく、自分の本心にきづいてしまったという感覚が一番近い。今までは「丼とは美味しいもの」という先入観が僕の判断を支配していて、丼を選ぶときに自分の意思は介在していなかった。もちろん、定食屋に行って素直に定食を選んだ時の満足度の高さに気づき始めていたというのもある。自分で料理を始めて気づいたけれど、温かいものが温かく出てくる。それも何品も同時に。この難易度と満足度に気づいた頃、僕は丼を卒業したのかもしれない。そもそも、大抵のご飯は温かいものが温かく、冷たいものがしっかり冷たければ概ね満足すると考えても言い過ぎではないと思う。
 なんにせよ、生きてると新たな発見は尽きない。
他にもある。これはつい先日気づいたことだけれど、僕は幼い頃から「寝たら忘れる。」というおめでたい性格だと思い込んでいたし、それが気持ちの良い生き方だと思っていた。これも大きな解釈違いがあった。まず大前提として僕は嫌なことがあったらどんな些細なことでも死ぬまで忘れない。いわゆるしつこい男に分類されると思う。ただ、不満や納得のいかないことが起きたときにスッキリするまで、ケリのつくまで暴れ散らかす。話が終われば僕にとっては過去になり「忘れる」のであって、決して「寝たら」忘れるわけじゃない。
妻に以前「相手は喧嘩と思ってるけどアンタはそう思ってないことめちゃくちゃありそうよね。」と言われたことがある。僕が気づいてないだけで、僕がスッキリしただけ。というシーンはたくさんありそうだし、暴れ散らかした後こっちは忘れてるけど周りには遺恨が残ることもたくさんある気がする。
新たな気づきが必ずしもポジティブな話とは限らない。僕の場合は、僕の中の怪物を助長し、克明に浮き上がらせているだけなのかもしれない。たまに出くわす「ヤバいおじさん」の線路をコツコツと歩いている気がしてならない。
そんなときはこんな風に少しずつ吐き出して、妻、あるいは底抜けに優しい人に殴ってもらうしかない。また何かを見つけたらゲロっと吐いていこうと思う。